内田克巳profile
会場/ギャラリー檜
会期/1997年9月16日(月)-9月27日(土)

午前11時30分一午後7時 


“X”に関する考察 

駒林修(美術家)

 内田克巳の画業はすでに40年を越えているという。その間、美術の潮流はさまざまなうねりを見せたはずだが、彼は時流と距離をとりつつ、一貫して内発性の強い、抽象化された絵画を制作してきた。ときにユーモラスにも、エロチックにもとれる画面は、柔らかく溶けあう極と硬く屹立する極の間を揺れるように、或いは見えない軸をめぐる螺線状の軌跡を描くように進んできた。

 ここで私は、彼の40年の仕事とはひっきょう何だったのか問いたい思いにかられるのだが、彼は常々「絵画を言葉で語っていってもこぽれ落ちるものがある。」と言っている。これは美的な価値を、色や形や構造という形式的要素にのみ還元する制作や批評に対するギリギリのところでの不信の表明だ。(内容は形式から切り離せないと認めながらも)ではこの先は、形式の分析よりも、作品の時間を共有することで浮びあがる言葉を待つことにしよう。


 内田克巳の40代の仕事に「Xに関する考察」( '66)と題されたシリーズがある。“X”とは何だろう。彼は「絵画は比喩だ」と言う。つまり Xの比喩だろうか。だとすると彼の仕事は終始 Xをめぐる旅のようなのだ。

「風景」 100F×2 1997 ギャラリー檜・撮影 石井久雄

心の奥にうごめくものに光をあて形象化しようとする試みからスタートした彼は、次にそれをアンフォルメルに解体する。さらに、低い堤防をこえて時に氾濫する内的な力をハードエッヂが抑制しようとする「まる」シリーズを経て、それらが止揚された「Xに関する考察」の時期を迎える。奥深く在るものと軽やかな表層のうごき。絵画が個人的な主題を持つことを受け入れ、その探究のためハードエッヂを採用したことがXとの距離を生んだ。
(ユーモアとはこの距離感のことではないか)こうして彼は、内的な要請とモダニズムの形式の融合という矛盾を孕んだ独自の道を歩いてゆくことになる。
彼には一度だけ立体での個展がある。( '79)額縁状の箱の中に布製の袋がぶら下がっている。ゆれる布袋は彼の原イメージとしてこれまでにも作品によく現われてきていた。(「お袋」と関係あるか?)立体とはいえ絵画性の強い制作だった。これは、内容と形式の葛藤などタブローに対する一種の閉塞状況があったとして、それを打開し、より自由にXを追求するために、タブローの方が彼に要求した行為ではなかったのか。

  81年にはタブローに回帰し、以来さまざまな技法を試みつつ、主題として此岸と彼岸の境い目がより明確に形象化さ机てくるようになった。画面にはそのメタファーとして、入口と出口、鳥居、屋上から下を見る視線、十字と四角によるマンダラ、中空に跳び出す形、などが現れてくる。(工ロスもこの境界に由来するのだろうか)これらの形の表出は、日本の「私小説」に特有の身辺の事実から生の象徴性に至る過程を思わせる。ただし彼の場合、事実は一度完全に忘れ去られ、 制作の途中で色と形に変換されて再浮上してきたもののようだ。84年「鳥へ」のシリーズでは、境界のメタファーとしての鳥居自体が風通しの良いものだったせいか、画面の構成は硬質で強度を保ちつつXの柔らかな呼吸を充分に伝えている。矛盾するものを抱えたまま飛翔する新しい達成だった。「ここ2・3年しきりと壁が欲しい。」と語る近作では、境界の主題をさらに展開しながら、画面は不要物をそぎ落して簡潔な表現がすすみ、ハードエッヂはさらに際だち、それにつれていっそう寂しさが増してきているように思う。壁とはXの水位が高まったゆえの堤防なのか、さらなる自在さへの道標なのか、今は謎としておくしかない。



  ところで、彼は白身のことを「画工」と称している。画工とは古くはラスコー以来の無名の職人を指すのだろうか。私はかって、発掘された漢代の俑をまとめて見る機会があったが、それらは現代の芸術の失った巨大な霊性と静寂に満ちていた。これも自我とか、見せるとかという意識を持たない職人達の天に対する仕事だった。彼は芸術家としての意識より、こういう人々の系列に自らを置こうとしているのかも知れない。

  「芸術」が日本に輸入されたのは明治維新後のことで、西洋近代美術により土着の美や感性は抑圧されていくことになる。近代派と土着派に分れたというより、個々の作家のなかに引き裂かれるようなかたちで定着されていった。それは130年近くたった現在でも同様だろう。

  西洋モダニズムは、外部を客観的に分析し、一義的に構築しようとする方向性をもつ。それに対し、東洋には内部をより精しく探索し、重層的で多義的な宇宙を体現してゆく方向性があるのではないか。例えば、個の意識の内側を下っていくとさまざまな心層を通過して、次第に薄暗闇に溶けこみ、ついには生命の源としての“存在”に達するという。(中国の禅坊主もイスラームのスーフィズムにも共通の方向だ)再び存在から浮上したとき、私だ、花だ、という差別化がおきる。同時に私も、花も、山も、宇宙は皆同根、等価、平等だという認識が生れる。東洋哲学者、井筒俊彦はこの辺の様子を「普通は、花が存在していると言うが、むしろ存在が花していると言うべきか」と書いている。
  内田克巳は明治以来の近代絵画導入の特殊性を吟味しながらも、(彼には画家長谷川刊行の評論がある)この土着の思考と感性を捨てなかった。

「無題」 1979 サトウ画廊


  これを制作に重ねてみよう。仮に、Xを自我と存在との境界領域での何者かだとすると、制作はXの呼びかけによって存在のカオス近くまで降りてゆくだろう。そして存在の“香り”をまといつつ浮上し、Xの領域を通過する際そのはたらきで原イメージ化、感情化される。そして完全に表層意識に戻って色と形がモノとして定着される。こう言えば一本道のようだが、実際の制作では完成予想図を持たずに白い画布に向い、切り込むように、または導かれるように引かれた一本の線から出発する。やがておぼろなかたちが現われ、強い線がそれを組みかえ、さらにそれも消され……というとめどもない行程をたどるだろう。しかし、最終的に顕われた画面には何が描れていようと存在の香りが伝えられているはずだ。西洋モダニズムから見れば香りなど弱点でしかないが、ここに東洋モダニズムのひとつの可能性を見てもいい。

 一方、その制作がXの要請によるものだとすれば、彼の作品は作者自身のためだけに向けられたものとなる。おそらく、存在への往還運動が母なるものから切り離された傷みを癒し、生の全体感を回復してくれるからだ。見る者もまた作品を通してそれを経験できるに遠いない。このようにして、たったひとり井戸を掘り続けるような作業は水脈に達したとき、人間の深みから生の意味をくみ出して我々に示すことでもあるだろう。


 内田克巳の故郷、三島は富士の伏流水が豊富に湧き出る地として有名だが、(大工場が出来てから湧水量は激減したらしい。近代と魂の関係に似ている)彼は少年時代に生地を離れてから一度もそこへ戻っていないという。帰ろうと思えぱわけもない現実の生地とそこへの想いは、いつしか内なる聖地へと昇華して、さらに生命の故郷へとつながってゆくだろう。Xとはその彼方から、悲哀と懐しさをともないつつ衝き上げてくる波動のようなものだろうか。ここに郷愁の画家として、存在が内田克巳している。

  内田克巳  UCHlDA Katsumi

1925静岡県生まれ

《個展》
1958、 '59、 '60 村松画廊(銀座)
1961、'63、'64、'66、'68、'71、'73、'75 サトウ画廊(銀座)
1977 京二画廊(京橋)
1979 サトウ画廊(銀座)
1981 ギャラリー檜(銀座)
1982 京二画廊(京橋)
1983、'84 ギャラリー檜(銀座)
1985 IBMギャラリー(川崎)〈“さまざまな眼”PART1〉
1985、'86、'87、'88、'89、'90、'91、'92、'93、'94、'95、'96 ギャラリー檜(銀座)

《その他》
1956〜66 美術文化展(都美術館)
1958 翔新会5人展(横浜ACC)
1959 第2回安井賞候補作家展(国立近代美術館)
1968 第1回新層展(銀座下村画廊)第2回新層展(銀座いとう画廊)
1970 錯誤 '70展(銀座サトウ画廊)日本の肖像展(銀座サトウ画廊)
1971 自然人間拡張への反証展(銀座サトウ画廊)
1986 エコール・ド・川崎展(川崎市民ギャラリー)
1987 内田克巳の小さな美術館(世田谷・羊鈴舎)
1992 JAALA展(都美術館)
1994 かわさき平和美術展(川崎市教育文化会館)
1995 第1回互人展(神田檜画廊)
1996 第2回互人展(神田檜画廊)
1997 distance(ギャラリー檜)

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