小島敏男個展(2001年/2004年) profile file2 work(作品)
会場/ギャラリー檜
会期/2000年2月7日(月)-2月19日(土)   日曜休廊

 

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人よ!聞いてくれ。君の中の水よ!火よ! 灰よ!灰の中の骨よ!灰よ! (*)

 人は知っているのだろうか、私達の「生」が 川の流れにたゆたう小さな木の葉のような存在でしかなく、流れがゆるやかな時は良いが 日々の暮らしの為ではなく、ある避け難いもの―「権力」とか「経済」とか「技術革新」とかあるいは人々が「進歩」と呼ぶもの―のために、もはや自分の存在を流れの外に在る事も、変更をも許さない程に勢いを増した時の ある「喪失」の事を。

 人は感じているのだろうか、その喪失の中で 人はただ上辺だけの体験を繰り返しているに過ぎず、それもそのつどあっと言う間に忘れて行く、そしてもはや誰も あの穏やかな親しさを持って 自分の時間の中に生き、自分の傍らに息づいていたものたちを 顧みようともしない―時代遅れさ!―そのことを見て取った時の「悲しみ」の事を。                             

 距離や時間はそれだけで存在する。それぞれの物語がある。(#) 

 社会の構造が変われば人の生活も変わる。そしてその変化の中で もはや必要の無くなったもの 役目を終えたものは消えて行くしかない。しかし そうだろうか。  

あの星はいつでもあったのだ。  
草も物語のようにそこで育つのだ。
 

 「作品は 自分の内側から否応もなく 生まれ出てくるものよ。私を見て!」と叫んでみたところで 何になるだろう。 「私」もまた自分の属する社会の一部分、点のようなものである事を 拒絶する事は出来ない。何故なら 人はそれでも生きて行かなくてはならないから。人の「生」が上辺の体験と忘却の繰り返しの中にある時、美術もまた そのようなものである事に、そもそも自分の内側から生まれ出たと思っているものも、自分の内面と思っているものも、実は 社会の反映に過ぎないのかもしれない という事に 何故 鋭敏である筈の創造的精神が 思い至らないのか。何故 耳を澄まそうとしないのか。  

声は聞くべきではないか。無用と思われる声でも。脳がいかに下水道や学校の壁やアスファルトや福祉事業で詰まっていようと虫の羽音も入れるべきではないか。我々の目に、耳に、おおらかな夢の一端が見えて、聞こえて、良いではないか。  

私は物語の事を思う。忘れてしまった物語。むかしむかしの物語。   

ある言葉を選べば なぜそれが選ばれたのか 言葉につながる物語を説明しなくてはならない。それが人間の責任だ。言葉の背後に潜む物語を明らかにして その言葉が使われた、意味を 間違わないように伝えなくてはならない。

私は人間の責任を果たす事が出来るだろうか。

母よ!・母よ! 空気はこんなにも軽く顔にそよいでいる。微笑めばいっそう澄んでいる。

untitled 1999 gelatin silver print (detail)

                                                  
アンドレイ・タルコフスキー監督作品「ノスタルジア」より狂人ドメニコの演説 CINE VIVANT NO.4 一九八四年
レスリー・M・シルコウ著「儀式」より、講談社文芸文庫 一九九八年
 

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