木村林吉profile 作品 テキスト(樹という空間 )
会場/ギャラリー檜
会期/1996年7月8日(月)-7月19日(土)

日曜休廊

 

「やつとのおつきあい」

平井亮一

一木村林吉の活動もずいぶん長いですね。

一おもてだつ言説の対象だったことはないけれど、けっこう支持されてきた。たぷんそれは、おおむこうをねらうような構えもなく、たんたんと仕事をすすめてきたのが総じてわかりやすかったということもあるのではないでしょうか。
物とのかかわりを単純な要素にかぎる、たとえば紙や木など身近な物体のごく一般的な性質にかたちを
あたえる、など対象物への順応ぶりにもよるのでしょうね。
このところは丸太の節をむきだしに突出させるなど、木の奇妙な属性を露呈させてはいますけれど。

一おっしやるとおりでしょうが、しかしその程度だと、あらかじめ好みの物体に帰依してかたちをつくることにほかならないわけで、自然とのかかわり、その精髄なんてクリシェでかたがついてしまいませんか。 一そんな意味がつけられたらもう先はみえてしまう。もっとべつの原理性がかれの仕事に流れていることに眼をむける必要がありそうです。

一ほう、なんでしょう。

一1980年代のはじめ紙とえのぐを交互にかさねる仕事から、かれは素材の物性に着眼しそれにやはり物質としての色彩をからめることを開始した。物のごくかぎられた条件と色彩との接点を視覚的なものにする方途といってもよいでしょう。無数にかさねられた紙のつくる漸層が色彩の微細な漸層でもあるような作品……。

一ああ、それなら知っている。あれは物を主体にしていたのだろうけれども、見ようによっては絵画でもあるようなあいまいなものでしたね。

一80年代後半からは木片を無数にかさね、そこにえのぐを介入させる仕事がつづけられました。これらはかれが木の材質に積極的に対応していったことを示すとともに、物体と色彩との相互作用の効果をひとつの局面にして反復させ、そのなりゆきを視覚的に結集させる営為であったのは周知のとおりです。

一しかしどうも、いろいろ取沙汰される「もの派」的な流れの応用版という面も拭いきれない。そのかわり、あなたのいう視覚的な美しさは感じられますがね。いずれにしても物質としての面がつよくなったぷん、レリーフというよりインスタレーションとしての性格がはっきりでてきた。それにしてもいささか図式的な進めかたではありませんか。

集積体 Accumulation
1995 木 h240xw90xd90(cm)

一「もの派」なんて突然いいだすからいけない。といったのは、物にかかわる営為が「もの派」とともにハイご破算に願いましては、ということにされてしまった事態に関連しています。
だいいち、かれらが素材の物質としてのありようをじかにみせようとしたなどといわれていますが、かれらが実際には、どんなに観念上の配慮と具体的な操作をかさね、“人為”を韜晦していたか知らなけれぱいけません。物のダダ的な還元はおりにふれこれからも不可避として、問題は、いちどそうしてパンドラの壷からときはなたれた物質は、それじたいにおいて、またほかもろもろとの関連をとおし、それぞれの局面で既往の媒体形式を離脱する契機をはらまずにはいません。
ここでは深くたちいりませんが、美術の自己言及性がくりかえしそうさせるからです。そしてそこに生じてしまうような、物体とのべつのかかわりを指し示す営為をさしあたり物体表出というなら、その可能性はこれからもずっとひらかれていると思います。
同時にこの営為は、そうした離脱の局面にかたちをあたえることだともいってよいでしょう。したがって、ことがらは「もの派」ということばに呪縛されるのとちがうわけです。木村の仕事についてもおなじことがいえるのではないだろうか。

一ややこしいはなしですけれど、それ、もう通用しそうもありませんねえ。
だいいちかれの作品にしてからが、げんに92年からは丸太そのものにかかわって、あいまいな状態で彫刻といってもいいものになっています。
それに、あなたのいう物体表出とやらは、むしろ惰性的に物にかかわったままついに明確な媒体形式として自己実現させることに失敗し、ずるずるとインスタレーションにおもむくことの謂いではありませんか。

一そうおっしゃるのなら、かれの仕事に則してみましょう。70年代はじめ、かれは黒のやすり紙に白えのぐの線条をおいただけの作品、つづいて黒いパネルの裏から白えのぐを押しだしその痕跡の点を並べるといった作品を発表したのは、あなた見てないでしょうね。

一ずいぶんさかのぽりましたねえ。むろん知りません。
それ、タブローですか。

一そうです。それまでかれは抽象的なイメージ表現にかかわっていたようですが、それを否定するように、いまふれたような作品でタブローを文字どおり疎外してしまった。
当時の状況を後景におくとしても、もうそんなに若くなかったかれには、これら一連のいわば解体指向はまさにそれまでの営為との切断を意味していたはずです。

一個展を活動の核にすえたのもそのころからですね。そうだと思います。その後はさきほどふれた紙や木片のかさねに移るんですが、ここで物質感と色彩の映発をからめるようになり、それだけ営為の構造が視覚化されたといえるでしょう。ここでひとびとの関心をひくようにもなったようです。

一ぽくもそのあたりから見ています。それしかし、日本人ごのみの詠嘆的な現物志向が作用し共感をよんだふしはありませんか。とすれぱやはりとりたてていうほどのこともない。ありふれた美学ではないかと……。

一いや、じつは問題はそこにありまして、私の考えはこうです。あなたの指摘する側面は否定しません。ただ、その程度の知覚上の親近性、といっても最大限も最小限もおなじことですが、万全ではなくてもやはりこうした作品としての知覚上の効果や規矩はもたなけれぱなりません。そうしたうえでかれがおこなってきたことは、事後的にではあっても、絵画の媒材であるべき紙、そして彫刻の素材であるべき木をばらばらにすることを発端にしてのことであったはずで、その後の仕事は、ほぐしばらばらにしたもののあいだに着目しそこにみいだした関係をずらしながら変えてゆくことの、ゆっくりした指示と反復であったといえるでしょう。そしてついに丸太の輪切り相互、輪切りと丸太とのあいだ、
つまりそれらの分離、接合へとさしかかっているのは見てのとおりです。この単純な二元的いや二進法的なずらしの反復には、その局面ごとの分節のかたちはあっても、そこにことがらをまとめてしまうようなことはない。それでいながら分節のかたちとしてそのつど一元化されている。そんな次第で、かれの作品は特定の意味をつたえたり、核を形成したり、観客の眼をその背後へさしむけたりするのを用心深く避けてゆっくりすすめられてゆく……。まえに私がいった、かれの仕事こ流れる原理性とはこのことなのです。

一それにしても木の皮を残したり、固い節の部分を突出させたり、なにやら演出意図が目につきませんか。90年頃のものだったかな、木片に彩色しながら割れめや年輪をいかすなど視覚効果を演出した小品を見てもわかるけれど、案外に身近で図式的な美学をめざしているのかもしれませんよ。

集積体 Accumulation
1995 木 h50×w100×d240(cm)

一ですからね、そうした効果は視覚・触覚がらみの規矩というべきもので、これで物体が形式をかくとくするのだし、またこの場合はそれ以外に作品の存在理由もないのではないか。そこに指示されたことからが同時に過不足ないかたちそのものであるような事態の現前、というわけです。
規矩はそうした具体的な実践の方途です。
あの小品はそこからこぽれおちたたわむれ…。

一お話しだと、かれの作品いや物体表出なるものは、いつになってもかりのうつろいゆくもの、つまりずっとひきのばされてゆく作業仮設でしかないということになりはしませんか。これ重要なことですよね。

一いや、そうしたなりゆきは、たとえば既往の体形式から物質がとりたてて対象にされ離されるような局面であらわになる知覚の現実に、かたちをあたえることにかぎっても、むしろ当然ではないだろうか。
くりかえすようですが、ここでは特定の意味や認識を固定的に表象するのでなく、おなじ物質でもそのようにして位相をずらし、かたちをあたえてゆくわけです。
媒体形式がなんであれ、ひとたぴその媒材が疎外されるなら、ひいてはそうした媒体形式と離れた物質一般にかかわる知覚の現実それぞれの局面をも指示すること、その実践をむしろポジティヴな形式へと反転させる方途がみえてくるはずです。
けっしてご破算ということではないし、あなたのいうような仮姿でもない。いまそれがインスタレーションなどと呼ばれてしまうにしてもね。

一まあ、あなたのご高説はうけたまわっておきましょう。そういえぱこんどは直径1メートル以上の丸太の輪切り半分をさらに二分し、そのあいだにべつの木片をはさむなどして、それらの切断・連続ですか、それをこれまでとすこしおもむきを変えておこなうとききましたが。

一ひとくちに輪切りといっても、一枚の厚さが10センチメートルなら重さは40キログラム以上あるそうだからたいへんです。
高齢にもめげず、それに斧を加える、くさびを打ちこむ、ハンマーでたたく、必要とあらばノミやチェーン・ソー、いやドリルさえ使うというから、なみたいていのことではありません。
どうやら、かれがいう「やっとのおつきあい」はまだまだつづくようです。

木村林吉 KIMURA Rinkichi

1916高知県中村市生まれ

【個展】
1970 新宿風月堂(東京)
1975 かねこ・あ一とギャラリー(東京)
1970〜77 櫟画廊(東京)
1978 サトウ画廊(東豪)
1979 藍画廊(東京)
1980〜'81 シマダ画廊(東京)
1981 駒井画廊(東京)
1980〜'82 田村画廊(東京)
1983、'85、'86ギャラリーラランヌ(東京)
1986 ギャラリー檜(東京)
1987 ギャラリーK (東京)
1988 ギャラリー環(東京)
1989 ギャラリー檜(東京)
1990 ギャラリー檜(東京)
1991 ギャラリー檜(東京)
1992 かわさきlBM市民文化ギャラリー(川崎)
1993 ギャラリーなつか(東京) ギャラリー檜(東京)
1994 ギャラリー檜(東京)ギャラリーGK(東京)
1995 ギャラリー檜(東京)
1996 ギャラリー檜(東京)

【その他】
1951〜'71 新制作展 都美術館
1971 第10回毎日現代日本美術展都美術館
1986 位十象展ギャラリーK
1987 横浜光州現代美術 '87展 県民ホール・ギャラリー(横浜)
1988 光州一横浜現代美術 '88記念展 ギャラリーNWハウス(東京)    
   光州一横浜現代美術 '88展(韓国光州市)
   MASKS ギャラリーQ(東京)
1988 いの紙のことば展 伊野市紙の博物館(高知県)
1989 distance serial no.3 ギャラリー檜
   横浜一光州現代美術 '89展 県民ホール・ギャラリー
   Japan Art Now 横浜市民ギャラリー
   表現としての70年代 藍画廊
1990 スモールサイズコレクション ギャラリーなつか
1991 横浜一光州現代美術 '91展 県民ホール・ギャラリー
1992 クリハマ・マインド 国立療養所 久里浜病院
   ART TRIAL 森 TAKA0 '92(高尾山)
   ポイント・ナウ 横浜市民ギャラリー
   光州一横浜現代美術展 '92(光州市)
1993 ポイント・ナウ横浜市民ギャラリー
1994 現代日本木刻フェスティバル(岐阜県関市)
1995 to A−from A1995 アジアからアジアヘ 県民ホール・ギャラリー
1996 美術の内側外側展 板橋区立美術館(東京)

ギャラリー檜(Gallery Hinoki)

〒104-0061
東京都 中央区銀座3-11-2
高木ビル1F

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