テキスト (ウロボロスの首尾は)
キスト(水の肖像)
テキスト(稲憲一郎の“試行”あるいは形式に還元されざる何か)

作品1 2004年〜1999年 作品2 2006年(個展より)〜2005年 
   作品3「表面のざらつきのなかで」 SPCgallery(2004年〜2003年/2000〜2001年)
  
作品4 2008年(個展より)


稲憲一郎論 ーストイックな表現における絵画の欲望についてー

石村 実

 1960年代の美術の展開を特徴づけるものは、しばしばそういわれているように変貌というよりは、むしろ《美術》という対象の、あるいはそう信じられてきたもののたえざる散逸であり、この散逸を通じて、それがあらわに浮かび上がらせている問いは、もはや芸術とはなにか、ではなく、美術について語ることをわれわれに許す地平に対する問い、なにが芸術という意味を生み出すのかであったように思われる。

  作品から一切の超越的な意味が除き去られ、作品は単なる物体に近づく。そのとき、では芸術は《それ自体以外のなにものも意味しない物体》にまで還元されるだろうか。しかし、ミニマル・アートの逆接はつぎの事実にあるように思われる一そのとき、《それ自体以外のなにものも意味しない》この物体それ自体が、というよりはむしろ、それ自体以外なにものも意味しないという事実そのものがひとつの意味を示すこと、まさしく《芸術》という意味を。

『紙片と眼差とのあいだに/宮川 淳』  

1

 美術の歴史、つまり美術史というものは、さまざまな形で語られる。しかし、それは何のためだろう?過去を正しく認識するためなのか、或いは過去をかってあった出来事として忘却するためなのか。例えば、たかだか30年も遡れば、宮川淳が書いたような、美術そのものを動転させるような認識が確かにあった。その切迫した言葉に対し、イラストまがいの絵画や、雰囲気的なディスプレイ(インスタレーション?)を、たんなる時代の気分でもちあげている現在の状況がある。この事実を、一体どう考えたらよいのか?ここに見られるのは、過去の安易な忘却、というよりは美術に対する無関心、と言った方がよい。このような態度は、過去の戦争の責任に対する私たちの態度と、共通するものがある。安易な忘却や無関心が、基本的な認識や思想の積み上げ、そしてそれを土台とした発展をいかに疎外するものか、私たちは知っているはずではなかったのか?経済成長が止まってしまえば、誇りも何もない国民に、国旗だの国歌だのといった空騒ぎがいかに虚しく響いたか、記憶にもまだ生々しい。この虚しさは、過去の重みを背負ったときに、はじめて再生し、解消されるのではないか。ここで宮川の優れた認識を振り返ることは、今を有意義に生きるためにも必要なこと。構造主義や記号諭が華やかなりし頃ならともかく、いまではあまり取り上げられることのない宮川の言葉について、若干の復習を交えて考察するところから、この論考を始めようと思う。

2

 冒頭に引用した宮川の言葉を、周囲の状況もふまえて、もう少しかみ砕いてみる。
  例えばミニマル・アートと呼ばれる作品がある。表面が均質な色面で塗られた絵画、あるいは工業的な表面処理をされた金属の彫刻などだ。(それを絵画と呼ぶのか、彫刻と呼ぶのか、は実は微妙な問題である。)そのような作品は、作品としての超越的な意味をすべて剥奪されているように見える。超越的な意味とは、美しい女性の姿とか、心地よい色合いであるとか、超絶的な技巧による描画であるとか、そういったものだ。それらをすべて剥奪された絵画が目の前にある。はたしてそれは芸術なのか?もしもその平坦な色面の絵画を芸術作品として認めるとなると、それが芸術作品である理由は、その作品の中には見いだせない。それが芸術作品で

WORK 94-06 90×155×13cm    
木・合板・アクリル絵具 1994

あるとしたら、それは私たちがその作品を芸術として見なすから、というのが宮川の論理だ。つまり、ある作品が芸術作品である理由は、作品そのものの中にではなく、作品を見ること、つまり私たちの眼差しの中にある。
  こういう考え方は、ソシュールの言語学、あるいは記号学から敷衍されてきた。ソシュールの言語学によると、言葉はその言葉の意味するもの(シニフィアン)と、意味されるもの(シニフィエ)との対応関係によって成立しているが、その両者の関係は決して固定的ではない。「イヌ」という言葉が犬を指すことに、私たちは何ら疑問を感じないけれども、平坦な色面の絵画を「カイガ」と言うこと、あるいはそれを「ゲイジュツ」作品である、と言うことには、若干のためらいがある。そのためらいが、「カイガ」という言葉、あるいは「ゲイジュツ」という言葉が何を指すのか、という疑問として立ち現れてくる。
  このシニフィアンとシニフィエの流動的な関係は、何も絵画や芸術という言葉の定義においてのみ生じるわけではない。詩人のステイファヌ・マラルメは、この言葉の流動的な関係を極限にまで広げてみせることで、革新的な詩作をなしえた。宮川の著書『紙片と眼差のあいだに』のタイトルも、マラルメの言葉から引用されたものであるが、書物である紙片と、その書物を読む私たちの眼差のあいだに何が起こりうるのか、それは紙片に書かれた固定的な意味以上の何か(「愉悦たる沈黙」)である、とマラルメは言う。
  この記号論的な思考を美術に敷衍することで、宮川は芸術とか絵画といった確固とした概念を、根本からつき崩してしまう。こんなことを言うと、反論もあるだろう。美術史は絶えざる過去の芸術への反抗と発展であり、芸術が確固とした概念であったことはなかった、と。しかし、そうではない。少なくとも私たちは芸術とか絵画という概念を、確固としたものであると思いこんできた。だから過去の概念に反抗し、それを乗り越えて発展し続けてきたのである。その概念が、実は私たちの眼差し中にあった、ということであれば、その概念を反抗の対象とすること自体、妙なことになってくる。
  このような現代という時代の表現が、過去の表現と同質であるわけがない。宮川は冒頭の文章の後で、次のように書いている。
  今日の表現の質をポジティヴに定義しようとすれば、そのひとつはここから定義することができるだろう。それはいわぱ表現のゼロ度ともいうべきものであるように思われる。いうまでもなく、このような表現のゼロ度が実現されるレベルはもはや作品の背後《深さ》にはないだろう、しかしまた、それは物体それ自体においてでもないだろう。それはむしろ見ることの表面として実現される。そこに今日の批評の言語の困難と苦渋が生まれる。
  この「表現のゼロ度」という言葉を覚えておこう。表現のゼロ度を質とした作品を作ること。その先駆はマルセル・デュシャンのレディメイド作品であろう。そしてミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、ポップ・アートの一部の作品、日本のもの派、フランスのシュポール/シュルファス、イタリアのアルテ・ポーヴェラなどの、現代美術の動向を想起してみよう。これらの動向の作品が、宮川の言う「今日の表現の質」を体現しているだろうから。しかしここでは、これ以上これらの動向には深入りしない。この論考で取り上げたいのは、これらの動向に含まれない一人の表現者について、である。
  ここで私は、稲憲一郎という美術家について言及しようと思う。稲は初期において、コンセプチュアル・アートと言ってよいような表現をしていた。

WORK 94−07 160×90×1cm    
木・合板・ アクリル絵具 1994

しかしその後、稲は独自の表現を展開する。その稲の展開が、宮川の残した言葉と深いところで響きあっている。この稲のような展開をした表現者は、私の見るところではめずらしいと思う。このことは宮川の思想の、普遍的とも言える価値を考えると、驚くべき悲惨な現実である。宮川は「今日の批評の言語の困難と苦渋」と言っているが、この悲惨な現実を考えると、今の時代は表現者にとっても「困難と苦渋」が伴う時代である、と言えるだろう。私は稲の足跡は辿ってみようと思う。

3

 はじめに1970年代末までの、初期の稲の足跡を辿ってみる。
  作品発表をはじめてほぼ10年間の稲の作品は、表現というよりは観察、あるいは記録と言っていい内容である。宮川の言う「表現のゼロ度」、という時代の表現の質と、稲も例外なく呼応している。
  稲は1947年に生まれている。そして1968年に、稲ははじめて村松画廊で3人展を開いた。稲の作品について、1998年に埼玉県立近代美術館で開かれた展覧会『NEW VISION SAITAMA』のカタログより、その頃についての記述を拾ってみる。
  稲がここに出品したのは、数字や英単語を用いた作品であった。それらは活字のようにていねいに描かれ、人為性を極力排除している。それらの文字をパネルの上で反映させてもとの記号と並置するのだ。
  およそ美術表現らしくない、活字による作品。稲はそのキャリアのはじめから「表現のゼロ度」といえる作品を発表していた。そして文字という認識方法に対するいささか漠然として疑問を、見る者に投げかけている。またその時期、稲の未発表の作品に、ガラスの瓶の表面に「battle」と活字体で書いた作品がある。
「battle」という言葉と、「battle」という物質(ガラス瓶)と、その「意味」が二重に表現されている。二重書きされた「意味」は、私逢の意識のどこへ向かうのか。「battle」という言葉に向かうのか、「battle」という概念に向かうのか、或いは「battle」そのもの、つまりガラス瓶という物質に向かうのか、いずれにしろガラス瓶が「battle」と命名されて、当たり前のようにそこにあることに対し、記号論的な疑問を意識の片隅にすぺりこませた作品だ。しかしそれらの意味の関係性は、最終的に私たちの意識の何処に結ばれるのか、作者の提示には曖昧さが残る。稲のこの作品では、意識が言葉や物質、概念の周りを逍遙するのであり、表現者としてまだ若かった稲の可能性もまた、同じように言葉や物質、概念の周りを逍遙していた。
  1969年、稲は『精神生理学研究所』と命名した、ワークショップ的な試みの事務局となり、周囲の賛同者、あるいは興味を持ってくれそうな人々に参加を求める。この試みは、ある特定の日時を決め、参加した各自が各所でその時に超こったことなどを記録して事務局に送付する、というものだ。その最初の宣言文は次のようなもの。
  私達は各地の参加研究所がそれぞれ個々の取り得る位置で規定された時空間において同時多発に行為あるいは無行為をもって参加する不可視的美術館 精神生理学研究所を設立しました。この研究所は直接的かかわりを拒否した個人の行為あるいは無行為の記録を集合離散させるものです。
  この呼びかけに対し、1969年12月から1970年5月以降まで全7回、16名が参加した。事務局であった稲と竹田潔(それぞれ東京研究所、長野研究所と命名された)の他に、美術評論家の東野芳明や概念芸術で著名であった松沢宥なども参加している。また、新潟で当時、現代美術家集団『GUN』に参加していた堀川紀夫は、『精神生理学研究所』の記録として、石ころに荷札を付けた作品を送付した。この作品は1970年に、東京ピエンナーレ『人間と物質』展に出品され、話題となった。
『精神生理学研究所』における稲の作品を、『NEW VISION SAITAMA』のカタログから、その記述を拾って見る。
  稲は当初、指定された時刻に自分が居合わせた場所の写真を撮り、地図の上でその位置を示し、その日の気温や気圧、風力、風向きといった気象状況を記入して、最後にその題名と署名を入れるという記録を作成した。しかし回が進むにつれて、徐々にこうしたデータ部分が削ぎ落とされ、最後には写真だけの記録が提示されるようになる。この頃から稲は『精神生理学研究所』に限らず、文字を省いて写真だけを提示する作品が増えてくる。
 ここでふたつのことを記憶に刻んでおこう。
  ひとつは稲の表現が潔癖と言ってもよいほどに無作為であること。稲は個人的なひらめきや感情を、意識的に表現から排除する。宮川の言う『表現のゼロ度』である。稲の場合、外界とふれあう感覚器官を、あたかもガラスのレンズのような透明な媒体とすることで、稲個人の恣意的な表現を排除する。残るのは稲の感覚に映し出された外界だけ。稲は内省的に自己を見つめることと、客観的に外界を見つめることとが、同時に達成できるような方途を模索していた。これは普遍性というと大げさになるが、少なくとも他者に対して開かれた自己表現を求める稲の姿勢の表れである。この稲の姿勢は、後年の稲の表現においても、ある種の客観性を与えている。
  もうひとつは、稲の記録が次第に写真だけの記録へ移行していったこと。このことについては、稲と同時代の美術家・飯室哲也によってまとめられた、『精神生理学研究所』という手製の冊子がある。その中から飯室が稲について書いた文章を見てみよう。
  第四回から第六回にかけては、写真が中心となり、現象的変化を写真に撮ることにより、眼に見える現れの変化と、稲が直接対面していることが浮かぶとともに、時間の経過が写真により分化されたものとして提示されることにより、稲と時間との接点も浮かぶ。それは稲が写真により時間を資料化しているといえるかもしれない。
  ここで飯室は、稲が「眼に見える現れの変化」を、つまり視覚的な変化を重要視するようになったことに注目している。これは稲が観念的な記録から、視覚という感覚による記録に一歩踏み出したことを示している。そして、記録(表現)の視覚化と関連して、時間に対しても感覚的に反応するようになる。これは写真という瞬間的な記録手段から、必然的に導き出された結果でもあった。 このあと稲は、美術評論家の中原祐介の紹介により、アムステルダムのアート&プロジェクト回廊でグループ展に参加、同じく美術評論家の針生一郎の企画により赤坂のピナール画廊で『言葉とイメージ』展に参加等、作為を抑えた記録的な写真作品で発表を続けている。 1972年の銀座・サトウ画廊での初めての個展では、『127時間の風物詩』と題して自宅近くの放置されたコンクリートブロックを撮影、さらにその現物を画廊に設置し、その会場や、放置されていた場所など撮影し、写真を壁に貼り続けた。
  1973年のピナール画廊『〈実務〉と〈実務〉12人展』では、自宅近くの屋外の音を録音し、それを会場で流しながら また録音する、ということを繰り返す。この二つの展覧会では、視覚と聴覚という違った感覚が問題とされながらも、時間を記録するというテーマは共通している。特筆すべきことは稲の記録する時間は、その前に記録した行為を連鎖的に含みながら、繋がっているということだ。これは稲の記録しようとしている時間が、デジタルに輪切りにされた時間ではなく、言わば生きられた時間であることの証左である。
  1975年の渋谷・現代文化センターでの『Affair and Practice』展と、1976年のサトウ画廊での個展は、1枚のネガから写真を紙焼きして、会場に貼っていく方法をとる。紙焼きは出来るだけ同じ条件で、同じ仕上がりを目指して焼かれたが、半焼きの写真はその時間・薬品の状態、気温、湿度、感覚等のわずかな差異により、微妙に仕上がりが変化する。 その仕上がりをチェックすることで、研ぎ澄まされていくのは、稲の視覚、すなわち眼だ。自己の感覚と正面から向き合うことで、生きられた時間を記録する営為は、ますます濃密になっていく。
  この頃の作品は1994年に、美術評論家・たにあらたの企画による『根底への間い一1970年代の美術』において、村松画廊で再展示されたので、記憶にも新しい。この時に、版によって写真を加工する作品や、コンクリートブロックの上に紙を置き、鉛筆でフロッタージュする作品など同時に展示され、それぞれに興味深かったのであるが、写真を紙焼きするというごく単調な手作業と、稲の鋭い眼差しを彷佛とさせるような75年、76年の作品がやはり印象に残る。
  このように、稲は1970年代末まで、生きられた時間の記録者として活動を行った。この活動において稲は、宮川の言う「表現のゼロ度」にあたる作品を発表し続けた。そして1年程度、発表を休止する。記録的な表現にある程度の結果を残した稲は、観念的な記録表現から、さらに視覚的な表現に踏み込んでいく。そのとき稲は、「表現のゼロ度」を経過した表現者として、独自の方法論を確立する。この変貌が、宮川の記号論的思考方法と関連させて考えてみると、実に興味深いのだ。

4

 1981年から再び精力的な活動を始めた稲であるが、その作品の変遷をごく簡単に見ていこう。着目点を作品の形状に絞って見ていくと、稲の変化が分かりやすい。
  まず1981年には、紙の上にフロッタージュをして、その上に線を引き、半透明のブルーの絵の具を重ねる。この作品は1970年代末の記録的な表現が、視覚的になっていく延長線上にあるものとして、とらえられるだろう。1982年には、石膏や木の箱形、或いはパネルを、真鍮の棒と組み合わせ、レリーフ状に壁に掛ける作品になる。表面をアクリル絵の具や油絵の具で彩色するなど、ここにおいて、今までの記録としての表現という傾向は大きく変わり、造形的な作品となる。1983年、箱状のパネルを壁に掛ける点では変わらないが、それを壁面空間に水平、垂直方向に設置し(例えばT字状に)組み合わせた作品となる。1984年、前年の壁面の作品に加えて、画廊の中央にも柱状の作品が立てられる。この作品では、ひとつひとつの形が単体としてではなく、インスタレーション様の構成物として見なすことも出来るだろう。1985年、再び作品は適度の距離をおいて壁に掛けられ、単体としての性格が明確になる。個々の作品は、大きな面を不定形に組み合わせたレリーフ状の形態となり、表面はオレンジの上に青で彩色されている。1986年、いよいよ稲特有の形状、壁から舌のように突出する木の不定形の作品となる。表面は筆のタッチを残しながら、青 で彩色されている。
  この1980年代半ばまでの稲の作品の変貌は、大胆であり緻密である。自分の興味の在処を絞り込みながら、その都度やり残した問題を、着実に次の作品の構造に取り込んでいる。この時期の作品でまず気がつくことは、稲が表現の領域を身近で日常的な領域、つまり記録表現から、抽象度の高い造形的な領域へと移動したことだ。どのような要因があって、稲は造形的な作品へと移行したのだろうか。私は二つの要因が、稲を動かしたのではないか、と考える。
  ひとつは日常的な領域を記録するという稲の方法論が、1975〜1976年の写真の紙焼き作品の頃を頂点にして、ある程度の結果を出したということ。常に表現活動に前向きに取り組む稲にとって、既に到達感のある方法論を繰り返していくことに、少なからず違和感があったのではないか。もうひとつは稲の作品が日常的な領域を記録する、という極めてコンセプチュアルな作品であったにもかかわらず、その方法が視覚に関わる方法に収斂していったこと。例えば写真の紙焼きの度合いを測る稲の眼差しは、その部分だけ取り出してみれば、絵画を見つめる眼差しとほとんど変わらない。見つめる対象が無作為に撮影された写真であろうと、作為的に描かれた絵画であろうと、平面上の像や色彩、トーンを見つめる行為そのものは同質のものだ。
  そのような方法を延長していけば、視覚そのものが試される場を求めて自らその場を作ること、つまり造形的な表現に向かうことになるだろう。ただし、ここでの造形的な表現という言葉の意味は、保守的な意味での絵画や彫刻に稲が回帰するということではない。この点については後の章でふれたいと思う。
  もう少し、稲の足跡を辿ってみよう。1980年以降に稲が展開した表現活動は、一貫した連続性をもちながら、美術表現としての深みと広がりを同時に手にしていく。1987年から数年間、稲はグループ展、個展など積極的な発表を続けていく。稲特有の有機的な曲線を描く木の立体、或いはレリーフの形状は、様々なバリエーションを生みつつも、基本的には変わっていない。しかし木の表面の彩色、塗り、描画は、一見するとささいな変化に過ぎないのだが、その時々で稲の表現の微妙な変化を決定づけていく。1987年には、オレンジ、青、白などの色が自由なタッチで重層的に塗り重ねられた。その彩色は木の形状、表面の凹凸に抗うようでありながら、物理的にはその形状に影響される。
  ところが1988年から稲の作品は彩色ではなく、鉛筆によるドローイングが表面に施される。色彩は鉛筆の黒鉛と、アクリル樹脂絵の具の白色のみ。ところどころ木の地肌が透けて美しく見えるのだが、色彩感ということで言えばモノクロームの作品だ。鉛筆の線はより鋭く稲の描画行為を表現するが、所々アクリル樹脂絵の具の童ね塗りにより隠蔽され和らげられる。そしてその上から鉛筆のドローイングが童ねられ、稲の描画行為の重層性を明確に表現する。強引に木の形状に抗って引かれた線は、描画された表面の独立性を表明しているようでもあるが、鉛筆というきわめて触覚性の強い描画材は、描画面と木の立体的な形状が一体であることを隠さない。この表面と形状の緊密な関係が、稲の作品に凛とした緊張感を与えている。個人的には、私はこの時期の稲の作品がもっとも好きだ。
  そして1997年頃から、稲は再び作品の表面に彩色を施した作品を、続けて発表するようになる。これまでの作品と異なり、そこには同色相色の濃淡より単純で明快なフォルムが描かれる。そのフォルムがまた、作品の木の形状と微妙な関係にあり、作品全体の形と表面に描かれた形が重ね描きされたようにも見えるし、それぞれがある程度の独立性を保持しているようにも見える。 この新たな展開が、現在も継続されている。

5

 1980年代以降の稲の作品を語るとき、私たちは稲の作品を何と呼べばいいのか、困惑してしまう。それが単なる言葉の問題ではなく、私たちの認識に深く根ざした問題であることは、はじめに引用した宮川のテクストを読めばわかる。
  1990年、川崎IBM市民文化ギャラリーの稲の個展で、美術評論家の平井亮一は稲の作品を「平面絵画ならざる“立面絵画”としてこの形式は他に類をみないものである。」とカタログに書いた。これは稲の作品の表面性に着目した適切な形容である。この頃稲は表面を鉛筆でドローイングした作品を発表していた。その作品が鑑賞者の目にどのように映ったのか、同カタログで平井はこう書いている。
  細くてねぱりつくような無数の線が群れ、それらが束になりながら流れると、こんどは別の線紋と干渉しあっておのずと粗密を節づける筆意であれ、いずれもが相乗効果を増幅させ、ジェッソでなめらかなまるごとの表面に無彩色ではあるけれどけっして単純ではない視線を形成する。と、あの線紋のあわいで支持体の量塊じだいがありうべからざる空間感覚の深まりをおびることになっている。
   稲の作品を「立面絵画」と形容した理由が、この短い引用文の中で過不足無く書かれている。鑑賞者の目は、まず作品の表面のドローイングに幻惑される。それが作品全体の形状と相まって「ありうべからざる空間感覚」をおびる。単なる木の立体物が、ありうべからざる空間を生みだすのは、表面のドローイングが絵画的なイリュージョンを引き起こすからだ。平井の眼差しの中で、稲の描いた線がいかに生き生きと絵画的なイリュージョンを引き起こすのか、再度読んでみてほしい。優れた作品と出会ったときの、一瞬言葉を失うような戸惑いが、みごとに言語化されている。表面が絵画的でありながら立体であるような物体は、「立面絵画」とでも呼ぷしかない。
  しかし、もう一度問い直そう。絵画とは平面上に描かれていて、はじめて絵画と呼べるのではないか?立体的な稲の作品を「立面絵画」と呼びたくなるのは、なぜなのか?ここで宮川の言ったことが、重要度を増して響いてくる。宮川は1960年代の美術の展開に「表現のゼロ度」を見た。作品の背後には何もないような作品。芸術という意味も、絵画という認識も、作品そのものの中ではなく、「見る」ことの中にしかあり得ない、そういう作品だ。それらの作品は、特別に「絵画」という意味にこだわりがあって作られたわけではない。ミニマル・アートの代表的な作家、ドナルド・ジャッドは、自分の作品を彫刻でも絵画でもない、「特殊な客体」だ、と考えていた。稲の作品がミニママル・アートの作品を超えて現在ある価値を持つのは、稲が「見る」ことの中にある「絵画」の意味を意識していることだ。稲のような明確な意識は、ミニマル・アートの中にはない。もう少し進めて言えば、稲は自らの作品が絵画的であることを欲望している。その欲望が、稲の作品を「平面絵画ならざる“立面絵画”としてこの形式は他に類をみないもの」にしている。
  ここで稲という表現者の特性を見る上で、例えばフランスの『シュポール/シュルファス』という現代美術の動向と比較してみてもよい。『シュポール/シュルファス』(文持体/表面)と命名されたこの動向は、絵画を支持体と表面という観点から記号論的に解体していく。発想としては稲の仕事に極めて近いが、『シュポール/シュルファス』に関連する作家たちは、論理的な発想から作品を制作していることが多く、80年代半ば以降の稲のよ うに、常に表面と支持体の微妙な関係に感覚的な緊張感をもって制作している、という感じではない。1990年の個展に寄せた、稲の言葉に耳を傾けてみる。
  線が、なめらかな空間を刻んでゆく。白い物質の薄い被膜が光りを遮り、視線を横へずらし込む。見失ったものの方へ、存在が傾く。眼の前に横たわる物質を被膜が裏切る。まだ無名のものの方へ、触覚が研ぎすまされる。表層の官能に絡め捕られ一瞬停止する。身体のあらゆる部分を受信器に変え、忘れられ、潜在する知覚が機能し始める。空間を探る触覚が意味と背後の奥行きの間で揺れ動き、表層を滑る眼差しが存在と被膜の間を漂う。前から後ろへ、後ろから前へ、方向も、始まりも、終わりもない未定の空間での戯れ。
  この濃密な言葉で語られていることは、私的な告白ではないし、方法論或いは理論でもない。稲の意識が眼差しを通してどのように作品に送り届けられるのかを語る、強いて言えば客観的な眼差しの記録である。線と被膜と物質と、或いは触覚と視覚と、稲の作品が抱え込むこれらの要素は、通常の美術作品であるならば、見る者を混乱させないように秩序正しく表現されるべきものだ。
  しかし、稲の作品の場合にはそれぞれが顕在化され、様々な体験の後に一体化されるよう企まれている。なぜそのような表現が可能であるのか?物質の被膜の、わずかに表面として認識されるその場所に、絵画としての意識を宿し、絵画という意味を生みだすことを欲望する表現者の行為が、「ありうべからざる空間」を可能にしたのである。付け加えておけば、この稲の欲望は普遍的な欲望と言ってもよい。この魅惑的な未知の空間を可能にしたのは、まさに宮川の言う「見る」こと、つまり眼差しについての思考であった。ここに私たちは、一人の愚直な表現者が、過去の優れた思想を継承し超越していく、現在では希有な姿を見ることが出来る。
 

 

 

稲憲一郎 Ine Kenichiro

1947 東京に生れる 
1972 東京造形大学美術科卒業

《個展》
1972「127時間の風物誌」サトウ画廊(東京)
1974「記録一測定」No.1サトウ画廊
1975「記録一測定」No.4サトウ画廊
1976「測定一変質」No.2サトウ画廊
1977「測定一変質」No.3サトウ画廊「測定一変質」 No.4コバヤシ画廊(東京)
1978サトウ画廊
1979ときわ画廊(東京)
1981コバヤシ画廊十ギャラリー檜(東京〕
1982コバヤシ画廊
1983ときわ画廊 コバヤシ画廊
1984ときわ画廊
1985コバヤシ画廊
1986ギャラリー檜
1987ギャラリー檜 コバヤシ画廊十ギャラリーるなん(東京〕ときわ画廊
1988 Sherry Art Space(東京)
1989ギャラリー檜アートフォーラム谷中(東京)
1990かわさきIBM市民文化ギャラリー(川崎)
1991ギャラリー現(東京)
1992ギャラリー檜
1994「根底への間い」1970年代美術 村松画廊(東京)

《その他》
1968 三人展村松画廊
1969 「Qのために用意された椅子」村松画廊
1969−70「精神生理学研究所」参カ 毎月一回郵送による
1970 「ニルヴァーナ展」京都市美術館(京都)
    現代美術野外フェスティバルこどもの国(横浜)
    Summer Exhibition Art & Project(アムステルダム)
    December1970 Art & Project(アムステルダム)
1971 「観念の外延展」ギャラリー16(京都)「言葉とイメージ」展ピナール画廊(東京)
1973 「実務と実施12人展」ピナール画廊 京都ビエンナーレ 京都市美術館
1974 「展 それぞれ」田村画廊(東京)「シグニファイング」京都市芙術館
   「CrossWorks No1」秋川(東京)
1975 「CrossWorks No2」府中浅間山(東京)「AFFAIR & PRAOTICE」現代文化センター
1979 「第六感展」神奈川県民ホールギャラリー(横浜)「現代精鋭展」東京都美術館(東京〕
1982 三人展ギャラリー檜
1983 「方法序説」彩鳳堂画廊(東宗)
1984 「方法序説」日辰画廊(東京)アートフェアーGallery Hinokiギャラリー檜
1985 「 '85版画展」日辰画廊「方法序説」日辰画廊「背後の解読」展 山梨県立美術館(甲府〕
1986 「方法序説」日辰画廊「万象の変様」埼玉県立近代美術館(浦和)
   「国際小さな芸術展」山梨県立近代美術館
1987 「風の姿」ときわ画廊「5月の湘南」藤沢市民ギャラリー「降り立った〈絵画〉」東京都美術館
1988 「響層一湘南」藤沢市民ギャラリー「彩発」ギャラリー檜
   「欲望の海をわたる絵画」川崎市民ギャラリー(川崎)
   「揺相(欲望の海をわたる絵画)」ギャラリー現
   「揺蝕(欲望の海をわたる絵画)」神奈川県民ホールギャラリー
1989 「君よ、時の旋律をたぐれ/」ギャラリー・サージ(東京)
   「豪と静寂と悦楽」代々木アートギャラリー
   「静座する眼差し展」lN Gallery(甲府)
1991 「表層のエロス」ギャラリー・サージ
    distance「ふるえる誘惑」ギャラリー檜
   「線の表現一眼と手のゆくえ」埼玉県立近代美術館
1992 「現代の地平・空間の質」ギャラリー射手座(京都)
   「マグニチュード」展 長岡市美術センター(長岡)
   「眼の座標。」代々木アートギャラリー(東京)

ギャラリー檜 Gallery Hinoki
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