NAKAMURA satsuki
Exhibition

北陸中日美術展('97.'03)
長野オリンピック国際美術展('98)
雪梁舎フィレンツェ賞展優秀賞('99)
イタリア国立ローマ美術学校絵画科('00〜'02)
"MAURlZlO MARCHESE"コンクール('01ローマ)
"MAURlZlO MARCHESE"コンクール最終選抜展('02〕
石川県芸術インターンシップ海外研修員
('01ローマ美術学校派遣)
ポローニャ国際絵本原画展('02ボローニャ、日本)
個展('02スロヴェニア、金沢、名古屋)
個展('03スルガ台画廊)
"Na ve Art IX"('04Pepper's Gallery)
風の会展('04新潟) 個展('04ギャラリー檜)
金沢美術工芸大学大学院修了
('99修了制作大学買い上げ)
現在金沢美術工芸大学非常勤講師

11:30a.m.〜7:00p.m
(最終日5:30p.m)

 


2004年9/27〜10/2
コトバノミズ
185×145


●作品テーマ
 私が描くものは具象的であるか抽象的であるかを間わず、「見たから」描くのである。私は、自分の目に一度も刻まれなかったもの、つまり、「見えないもの」を描くわけではない、 「普通、視覚が見えないと信じているもの」に「見える存在」を与える。 そしてここでいう「眼」について---視覚は、逆説的要素をもって存在する。自分自身の存在について、私は「見るもの」であると同時に、「見えるもの」である。
  私が「見るもの」である場合、世界の中心は私の身体であり、世界はその周りに集めら れる。他方、私が「見えるもの」としての視覚で存在する場合、私は世界のさまざまの「見えるもの」の中に組み込まれている。私が自分の見ている世界を自分の周りに取り込むどころか、私の方こそが、世界の織り目の中に組み込まれている。
  例えば、道具を「触る」時、「触るもの」と「触られるもの」との転換が起こっている。 私の手は、「触るもの」と同時に「触られるもの」である。 他のものでも、同じことが言えるだろう。音を「聞く」とき、私が音を「聞く」のか、 それとも音が向こうからやって「くる」のか。

  体が「感じる」ものでありつつ、「感じられるもの」であるということを前提とすれば、 感覚的世界の矛盾は、むしろ正当なパラドックスとなってくるのである。 これはつまり、身体と世界との関係である。
 こうした、身体と世界との両義的関係こそ、身体が、世界が、存在している印である。絵画における、能動と受動、外なるものの内在、内なるものの外在は、自分自身の身体に支えられて初めて可能となる。またそのことによって、存在の能動と受動とを同時に表すこととなる。

 つまり私の作品は、自分自身の体を中心として、自己を通して見た想像の世界、「夢の世界」を表現している。自分自身を通過させ、表現することによって、自分と他者とのつながりを生み出したいと考える。

  私が描く人物像は「私」であり、「私」はものを見る上での、そして判断する上での基準である。絵の中の「私」が観る人に対して、何を物語るかは分からない。しかし「私」 の表情、体、その形は限りなく自身の「素」に近いものとして象徴化し、表現している。
  絵の中に登場する白く丸い物体、口から吐く煙は、「思想」「意思」「会話」「言葉」の象徴として絵の中に取り入れている。自分自身の投影である人物像は、原型に近いかたち、素に近づけることで、内面の想像の世界を表現している。

中村五月 

ギャラリー檜 地図(Gallery Hinoki MAP)

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