MORIOKA jun
ICHIKAWA kazuhide
Exhibition

11:30a.m.〜7:00p.m
(最終日5:30p.m)

 


2004 10.4 mon-10.9 sat. 展示風景

 

市川和英


白6個組み
「自律的に構想する立方体 NO.9」  
サイズ:12×12×12センチ
材質:塩ビ発泡板


「自律的に構想する立方体 NO.7-B」
サイズ:12×12×12センチ
材質:塩ビ発泡板

『正しさ』と『無能』についての補足  



カラー6個組み
「自律的に構想する立方体 NO.7」
サイズ:24×24×24センチ
材質:木、ラッカー染色仕上げ

 マイケル・フリードが『正しさ』という言葉を使ったのは、結論すべき文末の「最後に一言」とはいえ、ある種とても曖昧なセンテンスにおいてである。ぼくは、このフレーズをクレメント・グリンバーグのかの有名な言葉『良い芸術』に匹敵するものと思っている。
 これは、あらゆる理知、論理を駆使しつつも、なお言い表しきれないときに湧出する批評の一瞬の無重力言語のようなものだろう。だから、あれと思いつつも納得してしまう。それらは、絵画・彫刻、そして写真であろうと、その領域の深化と純化のみからしか出てこない言葉であり、今日のメディア(マーケット)化した無批判な非空間的 「美術」とは一切関係のない文脈である。
 この『正しさ』に対しての『無能』であるが。スーザン・ソンタグがこの『無能』 という言葉を持ち出した写真の未純化の一断面は、写真の自明かつ客観的再現性が近代的視線の特権性の内に揺らぐことを指していた。簡単に言うと、写真が絵画を意識 しだした瞬間である。
 世界を直載かつ客観的に把握することの「有能」を放棄し、技術から芸術へすり寄って行く。つまり、自明(有能)から不明(無能)への転向は 「芸術」が視覚的『無能』の内に存することを暗示していると言えるだろう。
 写真の「真」なんてウソであり、写真と美術の視覚的『無能性』に信を置いているぼくと森岡は、美術(芸術)が『無能』であることを『正しく』理解している。                         
2004,10 市川
※『』および「」内の引用は、2003年のレジュメを参照のこと。


 

森岡純作品


「無題」
40×36センチ


「無題」
20×20センチ

 

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